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人差し指のように

ひとさしゆび

 あ、人差し指ってこんな字を書くんだ。なんて、携帯電話をいじっていた明美が突然言った。わたしは昨日買ったばかりの新品の箸でお弁当箱を突きながら、どんな字を書くんだっけ、と頭の中を掘り返す。答えはすぐに出てきた。期待とは裏腹に、べつに意外でもなんでもない漢字。明美は親切に携帯電話の画面をわたしに突き出した。「人差し指、怪我しちゃってさ」そう書かれているメールの文面が尻切れトンボになっている。
「知らなかったの?」少し呆れて明美を見た。彼女はすぐにメールの作成に戻ってしまう。親指が太い彼女は、メールを打つのにのろのろと時間がかかる。指の太さは関係ないかもしれないけれど。その間、教室で友達とはしゃぐ中村君の姿を眼で追った。彼の、狼みたいに跳ねた後頭部のかたちが、なんだか好き。ついつい眼が惹かれてしまう。あの髪は、セットするのにどれくらいの時間がかかるんだろう。あそこを、思い切りぐしゃぐしゃと撫でつけて、めちゃくちゃに壊してやりたいな、なんて思う。グラビアの女の子が表紙に載っている雑誌で、中村くんの額がばしんと叩かれた。男子達のじゃれあいって、なんであんなに馬鹿っぽくて心地よさそうなんだろう。いいストレス発散になりそうだった。わたしも女の子を相手に、大声で笑ったり、怒鳴ったり、雑誌でばこばこ殴ったり、関節技を決めたりしてみたい。一つもやり方知らないけれどね、関節技だけじゃなくて。
「人差し指ってさ」言いながら、中村くんの観察をやめて、食事を再開した。彼はもう友達といっしょに机の上に広げたグラビアの女の子を見ていた。わたし達と大差ない年格好なのに、真っ白な肌で、可愛らしいビキニを着こなし、明るい笑顔を浮かべている女の子を。「人を差すって書くのに、指で人を差したら怒られるよね」
 明美はケータイから顔を上げて、え、そうなん? と犬みたいに小さい眼でまばたきを繰り返した。あたし、めっちゃ人差してるよ。なんでダメなんーと、彼女が笑う。
 人を差す指って書くのに、人を差したら怒られるなんて、なんだかすごく矛盾しているような気がした。存在自体、否定されてるみたい。それは、例えば目の前にいる明美によく似ている。明美って名前なのに、別に性格が明るいわけじゃなくて、お昼休みは一人でお弁当を食べていることが多くて、ついつい見るに見かねて、こうしてお昼を付き合ってやりたくなるような子。ぶくぶくと太っていて、眉毛の剃り方がすごく下手で、べつに美しくもなんともない子。わたしも、人のこと、言えないけれど。あのグラビアの女の子は、なんて名前なんだろう、なんて考える。親からどういう名前を貰ったんだろう。
「おいサトシ!」と、大きな声が戸口から響く。中村くんを呼ぶ声だった。「ちょっとこっち来てみ。田口のやつ、すげーんだから」
 お、いくいく、と何人かの男子達が教室を出て行く。そういえば、中村くんの名前はサトシだったなと思い出す。そんなふうに名前で呼んだこと、ないけれど。でも、どういう字を書くのかは知っていた。聡。笑える。思わず噴きそうになった。だって中村くんは凄いバカだから。いつもテストで赤点ギリギリのバカ。ぜんぜん聡くもなんともない。でも、彼の狼みたいな後頭部はカッコいいし、友達とじゃれあう姿は子供みたいに可愛らしくて、ときおり眼が合うとニコっと浮かべてくれる笑顔は、いつもわたしの胸を貫く。
「あたし部室行ってくるわー」
 男子達は、お昼休みの前にお弁当を食べて、お昼の時間をフルに遊びに使っている。明美はお昼の開始五分でご飯を食べ終えてしまう。そんなスピードだから、ぶくぶく太っちゃうんだよって、言ってやりたい。言ってやりたいんだけど。
 頑張って。それだけ言って、明美を送り出す。部長さん、頑張れ。可愛くない女の子って、教室では浮いちゃう。だって、可愛い女子は、可愛い子と付き合いたがる。可愛くない子と付き合う子は、自ら、自分は可愛くないですって、宣言しているようなものだから。でも、どんなに教室で浮いていて、暗く思われていて、可愛くなくたって。わたしは明美のこと、すげーって思う。だから一緒にご飯を食べる。あんたが率いてる吹奏楽部さ、チョーカッコいいじゃん。あんたはそれのリーダーなんだよね。すげーよ、ホント。
 歯を磨くために、少し静かになった教室を出て行こうとすると、机の上にぽつんと置かれたグラビアの女の子に眼が止まった。負けるか、と思った。明美を見ていると、中村くんを見ていると、そう思える。負けるか。自分の名前は嫌いだった。でも、その名前の通りに生きる必要なんてまったくない。そんなの、どうだっていい。だって人差し指だって、人を差すのに使ったら怒られるけれど、人差し指がなくったら、どんだけ苦労することか。昨日買ったばかりのお気に入りのお箸だって持てなくなるし、トイレでこっそり鼻をほじることだってできなくなるし、人差し指、すげー活躍してるじゃん。
 あたしはあの二人みたいになりたいな。人差し指のように。

夏の終わりに届いたメール

また来年

 夏の終わり頃に届いたメールは、卑猥な内容の迷惑メールだった。
 どこかの広告業者にメアドを登録されてしまったらしい。以来、ほとんど使われていなかったメールボックスは、すぐにいかがわしい件名でいっぱいになった。最初の内はメールが届く度に煩わしい気持ちになったけれど、ケータイの電源を切っておけばいいんだと気付いて、対処はそれで終わった。どうせ使わないんだし。
 蒸し暑い朝にリビングへ出て行くと、テーブルの上にわたし宛の郵便物があることに気付いた。教材案内の広告だった。封筒の宛名を見詰めて蝉の声を耳にしていると、どこか落胆している自分に気が付いた。もう、夏が終わる。わたしはこの季節が好きではなかった。だから、生まれた季節に因んで付けられた自分の名前を見るたびに、むず痒くなる。ああ、また、なにもない空っぽの夏が終わっていくんだなって。
 夏休みの間は、ほとんど外出することがなかった。眩しい陽射しの中へ、わたしと一緒に出掛けようとしてくれる奇特な人なんて誰もいない。
 高校に入学してすぐ、女子達は幾つかの派閥を形成する。わたしはお情けでその仲間に入れてもらっていたけれど、この夏休みが始まる前にある女の子にこう言われた。あの子ってさぁ、なんでいつもあんな暗い顔してんの? 見てるこっちまで暗いのが移るってーの。ウザくない?
 そんなの、言われなくても知ってる。社交的な性格じゃないから、わたしのアドレス帳に登録されてる中学の友人は、ほんの数人だけだ。高校に入ってみんなバラバラになると、すぐに自然と連絡を取らなくなってしまった。だからケータイの電源を切っておいても、別に支障はなかった。それが、ほんの少し悲しい。
 わたしも彼女達のように気軽に友達を作れたらいいのに。あんなふうにケータイをかざして、赤外線でピっとやって、それだけで友達登録完了。ホントに、それだけで誰かと友達になれればいいのに。
 誰かの誕生日には、いたたまれない気分になる。朝の教室で、その子の周囲を大勢の友達が囲んでいる。わたしがそんなふうに祝福されることなんて絶対にない。だって、お正月に生まれた子と同じようなもので、わたしの誕生日には学校は必ず休みなんだから。翌日の学校に期待しても、みんなはこれから始まる新しい日々に浮かれて、わたしの生まれた日なんて忘れてる。毎年そうだった。
 ふと、ユカのことを思い出した。中学のとき、いちばん親しくしてくれた友達がユカだった。けれど高校に入ってから、彼女から来るメールはぴたりとやんでしまった。久し振りにケータイの電源を入れてみると、メールボックスはいっぺんに受信した広告メールでいっぱいになった。ユカとやりとりした昔のメールも、まるで洗い流されるみたいに記録から消えてしまった。メアドを変えよう、と漸くそのときに思い至った。ユカに、メアドが変わったって事を教えれば、それをきっかけにまたメール交換が始まるかもしれない。
 ユカへのメールの返事はすぐにきた。宛先不明、という内容だった。
 暫くの間、途方に暮れていた。少し、遅かったのかもしれない。もっと前から、積極的に自分からメールすればよかったのに。どうしてそれができなかったのだろう。
 赤外線で、ピっとするみたいに。メールを打って、親指でボタンを押すだけで思いは伝わるのに。
 それくらい簡単なことが、どうしてできなかったんだろう。
 答えはわかっている。単に、わたしがひどく臆病なだけだった。だからわたしは、いつも一人なんだ。
 じっと、ケータイに映るユカの電話番号を見ていた。迷惑だと思われたらどうしよう。電話番号も変わっていたらどうしよう。不安が渦巻いて、けれど、彼女ともう話ができないかもしれないと思うと、それは凄くいやだと思えた。凄く、いやだ。親指が、ボタンを押していた。
 電話は、すぐに繋がった。
『もしもし……あの、ナツだけど』
『うわぁー、ナツ? 久し振り! よかったぁ!』
 電話口から、元気な声が聴こえてきた。ユカはケータイを水没させて、友達のアドレスを全ておじゃんにして困っていた、ということをわたしに話した。呆気にとられている内に、メアドを交換し、今度の日曜日に二人で買い物に行こうと話が纏まった。
 部屋の鏡台に顔を向けると、泣いているのか、笑っているのか、奇妙な顔をした自分がいた。明日で夏休みは終わりだった。
 その夜、いきなりケータイが鳴った。飛び起きて時計を見ると、零時丁度だった。ユカからのデコメだった。
『ハッピーバースデイ、ナツ! 間に合ってよかった!』
 とたん、嬉しさが込み上げて、デコレーションされた画面がじわりと滲んだ。
 八月三十一日が、わたしの誕生日。明日からは新学期だ。
 赤外線で、ピっとするみたいに。
 ほんの少しの行動で、なにか変わることがあるんだとしたら。少しずつでいい、手を伸ばしていこう。
 夏の終わりに届いたメールを胸に、わたしは瞼を閉ざした。